宮本 輝 『ひとたびはポプラに臥(ふ)す』(講談社文庫)


 約1700年前,シルクロードの小国に生まれ,少年のころに抱いた仏教伝播,

 経典の漢訳の使命に苦難の生涯をかけた名僧,鳩摩羅什(くま・らじゅう)。彼

 の歩いた道を,いつの日か自分もあるきたい。宮本輝氏が,20年来の夢を賭け

 て,1995年5月から40日,西安からイスラマバードまでの6700kmを旅した(講

 談社文庫・全6冊,2002年)。


 書名とポプラ並木の写真に惹かれ,中国の一番大きな地図も一緒に買い求

 め,ロマンチックなシルクロードの旅に同行する予定だった。

  ところが,西安は,無秩序状態の交通,ひからびた渭水,生水厳禁。天水,

 蘭州を経て武威までの黄土高原は,疲労困憊と下痢,生活排水の異臭に砂

 嵐。やっとのことで,烏鞘嶺(うしょうれい)の峠(4300m)を超えると,祁連(きれ

 ん)山脈伝いに,張掖(ちょうえき),酒泉,嘉峪関,敦煌の河西回廊,ゴビ灘。

 敦煌の先は,トルファン,クチャ,カシュガルの天山南路。死のタクラマカン砂

 漠。トルファンの手前には,山肌に朱や赤の炎模様が浮き出た火焔山があり,

 地表温度は70度を超えていそうな煮え立つ釜の底のようだという。その間は,

 ゴビ,ゴビ,ゴビ,竜巻,竜巻,竜巻,蜃気楼,蜃気楼,蜃気楼があるだけ。


 映像は「事実」は映し出すが「真実」を伝えない。シルクロードの映像は,風

 の音や街の悪臭,毛穴に入り込む砂埃,蚊・蠅の大群等を伝えない。シルク

 ロードをロマンチックに伝えやがったのは,どこのどいつだと怒鳴りたい気分

 だということらしい。


 カシュガルは,西域南道最大のオアシス。その先は,タシュクルガンを経て,

 パーミール高原,カラコルム山脈のクンジュラーブ峠(5072m)を超えると,

 中国からパキスタン。そして,最後の桃源郷といわれるフンザ,そして,ガンダ

 ーラの地を経て,イスラマバード。

 宮本氏は,ひたすらつづく酷暑と蜃気楼と竜巻以外,何もない広大な地帯に

 あっては,1本のポプラの木陰がどれほどありがたいものかを痛切に知ったと

 いう。また,昼間の気温42度の,なんにもない,ただそこで生まれて生きて死ぬ

 人間がいる。しかし貧しくとも,今の日本の人々よりもはるかに真摯で純情な恋

 があり,優しくて寡黙な強い家族のつながりがあり,生きるためにしたたかで烈

 しく勇気のある人々がいるという。


  本書は,ひととき,文明や民族の十字路にたたずみ,日本という国のうるさす

 ぎる日々や明るすぎる夜から,多少なりとも自由にしてくれる。


                  (事務所報「そよかぜ通信」2005年2月/第3号)

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