宮城谷昌光 『奇貨居くべし』(中公文庫)


 宮城谷昌光氏の中国の春秋・戦国時代を描く小説を愛読している。中でも,

 呂不韋(りょ・ふい)を主人公にしたこの作品(中公文庫・全5冊)は気に入って

 いる。


 呂不韋は,大商人から秦の宰相になったが,始皇帝の父ともいわれる人物

 である。呂不韋の編纂した『呂氏春秋』には,「天下は一人(いちにん)の天下

 に非ざるなり。天下の天下なり。」という民主主義宣言というべき文があり,行っ

 行政は非凡で質がよいとのことである。そのすぐ後に,始皇帝が厳格な絶対

 主義的な政治思想のもとに中国を統一することを考えると,対照的で,その先

 見性と勇気に驚かされる。


 物語は,実母を知らず,義母に冷遇され,商家で店員と同じに働かされてい

 る,15歳の呂不韋が,旅に出ることから始まる。内向的でみじめの塊のような

 少年の心が,次第に新しい世界に開かれていく。荀子と出会い,その教えをきく

 場面がよい。宮城谷氏も,あとがきで,「呂不韋のうしろに雉(ち)とともにすわっ

 て荀子の教えをきいていたような気がする。」(なお,雉というのは従者の名)と

 書いているが,私もそのうしろで教えを受けたような気がする。


 荀子は,呂不韋を駄馬だというが,「名馬でもひととびで十歩は進めない,名

 馬がひと走りで到着したところへ,駄馬であっても十回走れば到着することが

 できる」という。天才が一年でなした偉業に,凡人でも,十年の勤労によっておよ

 ぶことができるというのである。


 宮城谷氏によれば,「青はこれを藍より取りて藍より青く」という荀子の言葉は,

 立派な弟子のことではなく,絶え間ない努力による自己変革のことをいうので

 あり,変革前の自分が「藍」で,変革後の自分が「青」だそうである。


 藺相如が秦王をむこうにまわして,すさまじい迫力で和氏の璧(かしのへき)

 を取り返す話や,廉頗(れんぱ)将軍との刎頸(ふんけい)の交わりも書かれて

 いて,心があつくなる。


 呂不韋は,商人として成功した後,師の荀子と遇(あ)った際に,「商売の道で

 得るものは,私の質に適(あ)わぬものが多い」と悩みを打ち明けた。荀子から

 は,「また覆われたな,古びたものを棄てよ」と一喝される。

  それを聞いた藺相如の「なんじはめぐまれている。いまだに叱ってくれる師が

 いる」という言葉と,呂不韋の「師とは,ありがたいものである。素心にかえらせ

 てくれる」という思いが心に残る。


                 (事務所報「そよかぜ通信」2004年2月/第2号)


       戻る