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 『ピエタ(Pieta)』
                               大島真寿美(ポプラ社,2011年)





ピエタ(pieta)は,イタリア語で「哀れみ,慈悲」を意味し,

 十字架から降ろされたキリストを抱く母マリアの聖母子像

 をいうが,ここでは,ピエタ慈善院(Ospedale della Pieta)

 のことである。舞台は,18世紀の爛熟期のヴェネツィア。

 ピエタは,教会の慈善事業の一つとして設立された捨て子

 の養育を目的とする慈善院で,音楽的な才能のある女子

 への音楽教育が盛んで,音楽院が併設されていた。
 
  物語は,音楽院での教え子がヴィヴァルディ先生の逝去

 の知らせを知ったところから始まり,〈l'estro armanico〉が奏でられる。

  「赤毛の司祭」と呼ばれたアントニオ・ヴィヴァルディ先生(Antonio Vivaldi。1678年〜1741

 年)は,故郷のこの音楽院の音楽活動に長く携わった。「四季」(le quattro stagioni)の作曲

 家と知られるが,実は,協奏曲,オペラ,宗教曲等多岐にわたって800曲にもおよぶ作品を

 書いたバロック音楽の大作曲家で,20世紀半ばまで忘れられた存在だったそうである。


特に気に入ったのは,次の場面である。

  主人公エミーリアも,そこそこ才能があったが,親友のアンナ・マリーア(アンネッタ)の才能

 は格別である。エミーリアがたくさんの時間と労力をかけてようやく弾きこなせた難曲をアン

 ネッタはやすやすと弾いてしまう。ある日,二人がヴァイオリンの稽古をしている部屋に,既

 に音楽的評価の高かったヴィヴァルディ先生がふらりと現れて,ヴァイオリンは楽しいかい?

 と気さくに聞いた。二人が楽しいですとまじめに答えると,先生が,わかるよ,と言った。楽しい

 ですっていう音が廊下に聞こえていたからね。きみたちはなかよしなんだね。

  なかよしです,と二人が答えると,先生は,いいなあ,といった。そうして,ふんふんふん

 ふん,と軽い感じでメロディを口ずさんだ。
 
  二人がぽかんとしていると,うひっ,と笑って,なかよしの曲,といった。弾いてごらんよ。ふん

 ふんふんふん。
 
  アンネッタがちょっと首をかしげ,すすっと弾いた。
 
  先生が,ふんふんふんふん,とさきほどとちがうメロディを口ずさみ,じゃきみは,こういうふう

 に弾いてごらん,とエミーリアに指示した。 それはとても簡単なものだったから,エミーリアも

 いっしょに弾くことができた。

  先生は,二人の能力を瞬時に見極めた上で,目もくらむような速さの即興で,和声のうつくし

 さではなく,和声の楽しさを教えた。


有力な貴族の娘・ヴェロニカもピエタに通っていた。彼女は,才能もなく熱心に練習もしなかっ

 たのに何年も通い続けたが,合奏の稽古のときは,迷惑をかけるので,弾いているふりだけを

 していた。

  ところが,ヴィヴァルディ先生は,こっそりヴェロニカ用の譜面を作ってくれたことがあった。

 小さな子供でも弾けるかんたんな譜面だったが,それで彼女が演奏の稽古に参加したことが

 あった。ヴェロニカは,自分のためにだけ作られた一度きりの譜面と思い込んで,貴重な財産

 である譜面の裏に,こっそり詩を書いた。

  この譜面探しとエミーリアの母親探しが,カーニバルの熱気を帯びた迷宮ヴェネツィアを舞台

 にミステリー仕立てで話が進む。悪人は誰も出てこない。


譜面探しを受けた結末がなかなかよい。ヴィヴァルディ先生と縁の深いゴンドリエーレが歌う

 彼しか知らない歌,そして,ピエタの中庭で,音を合わせる愉しみのためだけに奏でられる

 〈l'estro armanico〉。


  早速,聞いたことがなかった〈l'estro armanico〉のCD(イタリア合奏団。I Solisti Italiani)を

 手に入れた。12曲からなる協奏曲集の作品番号3(1711年出版)で,「レストロ・アルマニコ」は

 「調和の霊感」と訳される。和声のうつくしさは,楽しさあってのものだというエミーリアの言葉に

 納得する。ヴィヴァルディ先生には,私の先生にもなってもらおう。

                         (事務所報「そよかぜ通信」2013年3月/第12号)